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小児外科医としての一歩を踏み出した先生方の感想をご一読ください。
令和3年度より京都府立医科大学小児外科へ入局させていただきました。後期専攻医の西子瑞規と申します。私は、1992年に静岡県にて出生しました。小学校時代から父親の影響で野球を始め、勉強はほどほどに野球に打ち込む日々を過ごしました。その後は、サッカーの名門藤枝東高校に進学しました。サッカー名門校ですが、やはり自分はひたすら野球に打ち込み、学内の試験ではスポーツ推薦で入学してきた同級生より成績が悪いこともしばしばありましたが、とても充実した高校生活を送りました。
2010年に京都薬科大学薬学部薬学科に進学しましたが、お世辞にも真面目な学生とはいえず、なんとか進級だけはしていた様な状態でした。大学4年時このままでは駄目だと思い、当時授業で医師の先生の講義が面白かったこともあり一念発起して2015年に奈良県立医科大学へ編入学致しました。奈良県立医科大学へ編入後も結局野球部に所属し部活中心の生活ではありましたが、そのおかげもあってか3年時には念願の西医体優勝を果たすことができ良い思い出となっております。元々は薬学部にいたこともあり薬物治療がメインの内科に興味がありましたが、5年になり実習が始まると、はっきりと自分の手で治す外科に興味を抱き、その中でもより一人一人の患者を大切にする小児外科に興味を持ちました。
2019年に奈良県立医科大学を卒業し、横浜みなと赤十字病院で2年間の初期研修を行いました。同病院は救急車搬送台数日本一を記録したこともある救急・急性期病院であり、救急科や外科を中心に研修を行いました。同病院で多くの症例を経験することはとても刺激となり楽しく充実しておりましたが、何か違和感が残る日々を同時に過ごしておりました。いざ専門を決める時にもう一度自分の理想の医療を振り返ると一一人一人の患者を大切にするという思いがあり小児外科医療に進みたいと考え京都府立医科大学小児外科教室に連絡させて頂きました。
出身大学でも関連病院に勤務中でもなく過去に京都に住んでいたことがあるぐらいしか縁のない得体のしれない私を快く受け入れてくださり、また実際に諸先生方の小児医療に対する姿勢に直接触れ、やはり”これだ“と確信に至り入局を希望させて頂きました。まだまだ小児外科医の道を歩み出したばかりの若輩者ではございますが、京都府立医科大学小児外科同門会のさらなる発展のために尽力させて頂く所存です。どうか御指導・ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。
滋賀医科大学小児外科 川脇拓磨先生(平成31年卒)
令和3年度より入局させていただきました、川脇拓磨と申します。京都府立医科大学を卒業し初期研修を終了後、近江八幡市立総合医療センターで15か月間外科/小児外科の修練をし、その後9か月間京都府立医科大学小児外科で研鑽を積み、今年から滋賀医科大学で勉強させて頂いております。
幼少期に弟が鼠径ヘルニアの手術を受けたこと、周囲の知人に小児外科の先生が多くいらっしゃり、その方々に憧れを抱いたこと、思春期という影響を受けやすい時期に“最上の命医”という漫画に出会ったことから小児外科医を目指しておりました。そして、研修医の時に大学で受け持った患者が、小児外科入局の最後の後押しとなりました。彼女は、神経芽腫を煩っており、自分の娘と同じ年の子供が難病と戦っている現実を直接見たことに衝撃を受け、もしこれが自分の子供だったらという気持ちで治療方法を様々な文献で探しましたが、すでに上級医の先生が施行しているものばかりでした。この経験を通じ、小児がんの治療の難しさとその理不尽さを改めて実感し、小児悪性腫瘍を専門として小児外科医となることを決意したのでした。
小児外科医となって3年目となりますが、いまだに自分の不勉強さや要領の悪さに愕然とし、気持ちと行動に乖離があることも多々あり、心が折れる日々が続きます。しかし、病棟や外来で自分の診ていた患者さんが元気になっていく姿をみると頑張ろうという気持ちが強くなります。“もしこの子が自分の子供だったら、20年後に1番いい状態になっているような治療をしたい“、子供を持つようになってから思うようになった言葉ですが、いつの日かこの言葉通りの診療が出来るように、今は1日1日を頑張っていきたいと思います。先輩方には多大なご迷惑をおかけしておりますが、今後ともご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします。